睡眠障害の見る夢

夜(nokt-o)のブログです。絵描きになりたい。

4ヶ月前の自分

どうしてもこの季節に慣れる事は出来なそうだ

何かを成し遂げなくちゃいけないような焦燥に駆られて

そんなことしなくてもいいのに

考えているだけで押しつぶされそうな不安と希望を抱えて

いつも不安しか見つめることができずに答えは出さず

何もせず

 

そのツケがいよいよ回ってきたのだ

もう目を背けることは出来ない

不安なのは過去の後悔を清算することだけ

変化が嫌になってしまった大人だよ

でも立派な人間でもない

ずっとこの毎日を繰り返したいと思うのは間違いじゃない

そう信じてる

思い出を背負って行くには向き合わなければならない事ばかり

先送りにしてきた懸念要素が積み重なり逃げ出したくなるほどの

恐怖

そんなことだけ

考えるだけ

何も進めていない

進みたくない

気取った言葉で書き連ねても心は晴れない

思考は止まらない

自己分析こそが自己防衛

詩人にはなりたくない

眠れないのは昼寝をし過ぎたせい

自宅でレベルを上げるのはゲームだけ

 

過去を捨てたくない

引きずりたい

忘れたくない

この不安も

嫌な思い出も

まとわりつくままに過ごしたい

真っ白なのは嫌だ

この感情を殺さねば

それこそが唯一の処方

それは自殺

思い出を捨てるのは過去の自分殺し

捨てたくない

間違った自分を

嫌だ

前に進むことが嫌なんじゃない

この位置を動くことが嫌なんだ

いくら書こうとも拭い去ることは出来ない

いつまでも我儘で

そんなのは承知

じゃあどうすればいい

どうしようもない

衝動だけ

 

この不安を吹き飛ばそうとする衝動だけ

 

すがりつく

いつかの誰か

昔々、とある少年は規則正しい生活を送っていた。

その少年は日の出を見たことはあっても、日付が変わる瞬間を経験したことはなかった。

時は過ぎ、少年の好奇心はついにこっそり夜更かしするという行動へ導いた。

確認するのは手元の目覚まし時計、電気を消すと暗くて何も見えなかったが、幸いにも目覚まし時計にはライトアップがついていて時間を確認することは苦にならなかった。

そして、その瞬間が訪れる。

少年は息を呑み、全身の神経を研ぎ澄ませ、来たるべき瞬間に備える。

時計の針が上を向いて重なる。

予感していた。少年は日付が変わる瞬間に意味がないことを知っていた。

それでも、なにか起こると微かに願っていた。

さらに年月は経過し、少年は年末のカウントダウンまで起きていられるようになった。

今まで見ることのできなかった年明けのムードをテレビから感じていた。

それは局ごとにずれているカウントダウンだったり、年明けの瞬間の派手な演出だったりであった。

しかし、同時に少年は思う。

「年が明けても何か世界が変わるわけじゃない」

「人間が騒いでいるだけで」

「日付が変わるその瞬間と何も変わらない」

「何も起こらない」

それでも毎年、こたつを家族で囲み、TVとともに来たる新年に冬休みの少年は幸福を感じていた。

最近になって、少年は青年になり、インターネットをも使いこなすようになった。

TVを見る時間は少なくなり、SNSにふける日々。

今まで「新年を迎える」ということだけで楽しかった時間はいつしかつまらなくなっていた。

家族との話がしたいわけでもない、TVは今更気づくが毎年同じことの焼き増し。一種のマンネリだ。

その一方で彼はインターネットを用いて新たなおもちゃを手にしていた。

そのおもちゃは自分の境遇を実況したり、年末の企画やらなんやらを全く意に介さずひたすら友人とコミュニケーションをとったりと様々な挙動を示すが、年明けのその瞬間にはそろって「あけましておめでとう」とプログラムのように出力する。

彼はこのおもちゃのおかげで年末をより一層リアルに感じることが出来る。

おもちゃの中には友人たちもいる。彼の大嫌いなラブラブカップルもさすがに年末は家族と過ごしているようだ。

年が明けることに全く変化はない、だからこそ年が明けることに意味をもたせようとする人々(勿論そんな意図はないだろうが)を見ていたいのだろう。

いつかはそんなことも飽きてしまうのかもしれない。

彼の将来によってはそのおもちゃを捨てたり、おもちゃの事を忘れて何か別の事をしているかもしれない。

それでも今はまだそんなことを考えたくはなかった。

このおもちゃをもってリアルとは全く片腹痛い。

とおもちゃに思いを吐露する彼であった。

 

藍坊主「ジムノペディック」

2017/10/17編集

自分のPCだからかもしれないが、googleで「ジムノペディック」と検索すると結構上の方に出てきてしまったので、もう少しブラッシュアップするべきだと思って編集しました。

 

記念すべき?最初のレビューは、藍坊主というバンドの楽曲、「ジムノペディック」。

どの楽曲にしようか悩んだのだがやはり今一番好きな曲を聞かれたときの答えが適当だろうと。ちなみに、藍坊主を知ってから10年近くたった今も、藍坊主のなかで一番好きな曲を訪ねられたらこう答えます。

ジムノペディック」は藍坊主のメジャー3rdアルバム、ハナミドリに収録されている楽曲です。後に、ベストアルバムにも収録。また、ハナミドリ内の楽曲ではシングル楽曲を除いて唯一MVが作製されており、ライブでもセトリの定番であるなどファンからの支持も集めています。

 

このブログを見る人が藍坊主というバンドを知っているか知らないかで記事の書き方が変わってくるような気もするが、面倒なので徹底してこの楽曲のみに絞ったレビューをしようと思います。

 

いまや初めて聞いた時の感想は思い出せませんが、ただただ、私の感性をガラッと変えてしまうような衝撃を受けたということは思い出せる。

どうしてもこの楽曲を語る際に芸術性、綺麗さといった言葉が出てきてしまう。おそらくはもっと適当な日本語があるのだろうが私の語彙が貧弱なばかりにどうも奇妙な文章になってしまいます。

兎にも角にも、「綺麗」というのがこの曲の感想なのだ。

私にバンドサウンドの知識は全くなく、詳しい人からは何を言ってるんだと突っ込みを受けるかもしれないが、なんとか魅力を伝えていきたいと思う。

 

イントロはピアノの旋律から始まるこの楽曲は個人的には藍坊主の最高傑作であると勝手に断定しています。藍坊主の楽曲はどれもイントロが特徴的かつ、心地よいリードになることが多いと思ってます。

 

はっきり言って、この曲の詞はよくわかりません。だから歌詞を見ながら聞いても「深いなぁ~」とか頭の悪そうな奴が言いそうな感想は出てこないはずです。

では、支離滅裂な内容になっているかというとそうではない。hozzyの作詞はとことん「感覚的」であるのです。そして、その感覚的フレーズが論理的につながる部分が妙なとこであるといえます。

アルミホイルを噛んだ味がしそうな火曜日→ジムノペディが水をかけていく→この世界がふやけてしまう前に→水曜日の朝に…

火曜日に水がかかってふやけそうになり、水曜日になる。この直観的な言葉遊びを好むかどうかというのは、この曲に限らず、hozzyの作詞が好きかどうかというところにかかわってくると思います。

Bメロでは、青い海にいるはずの魚が、青い空にいてもいいと提案しますが、同時にからからに乾いた晴天では魚は干からびてしまう。そして乾いた世界がひび割れないよう笑ってくれと。こういったロジックがあるのが、藍坊主を聞きこんでしまう理由になります。興味深いのは、乾いた世界と対となる概念が雪であるということ。おそらく、ふやける↔風、乾く↔雪であると思ってます。こういった一般的でないhozzyの感覚は曲に彩りを与えるアクセントですね。

 

 

この曲を初めて聞く人は何があってもサビまでは聞いてほしいです。

こういうとまるでサビが別格のように聞こえてしまってあまりよくないのだが、Aメロまで聞いて「別に…」というところで聞き終えてほしくないのだ。

この曲の魅力の一つにサビの盛り上がりが上げられるだろう。

何か閉塞的なAメロからサビに向けてサウンドは広がりつつも水面下で落ち着いているのがサビで一気にvo.hozzyの声も相まって開放的になる。サビのコーラスはこの楽曲の綺麗さに拍車をかける。

藍坊主というバンドの良さにvoであるhozzyの声がある。

彼の透明感を持ちつつ芯のある声は藍坊主の楽曲により一層の磨きをかける。

最近の流行の女々しい声のバンドと違って特に高音部での発声は綺麗でありながらもナヨナヨしさが全くない。

このジムノペディックは藍坊主の楽曲の中でも音程が高い部類に入る、そのためhozzyのボーカルが冴えわたるというわけだ。

(そして、正直AサビBサビの歌詞は単体でみるとそこまで好きではない)

 

 

サウンド面では最初にも言ったように鮮やかなピアノの旋律が随所で散りばめられていて楽曲の芸術性(何故か低俗に聞こえる)を高めている。一度聞くとピアノの音が印象的なこの楽曲であるが以外にもピアノの旋律部分はイントロアウトロ以外では少ない。それ以上にバンドサウンドがこの楽曲の綺麗さを高めているのだ。

サビ直前のギターのスクラッチ、ドラムロール、こういった要素がサビの盛り上げに貢献している。そのサビでは(サビ以外もだが)ベースが動く動く。

 

この楽曲に限ったことではありませんが、編曲、あるいはアレンジの上手さは藍坊主の特徴です。まず、ドラムとベースのリズム隊がうまく、安易なフレーズを繰り返さないので曲全体にまとまりがでつつも、聞き飽きない。ベースのメリハリも曲のメリハリに直結しています。リードギターとメロディーラインのハーモニーはわざわざ書き立てるでもなく綺麗ですし、ギターのカッティングもリズムになっています。

 

そしてなによりCメロからは圧巻。

上記で触れた歌詞だが、このジムノペディックに対してはその雰囲気に見事に一致している。

こういう歌詞自体は藍坊主では珍しくないのだが、ここまで曖昧なのはそうないだろう、しかし曲の芸術性には助力している。

 

何度聞いても、おそらく何年経ってもこの曲に飽きるという日はこないだろう。

本当なら「この曲すげーよ!なんかすげーよ!」というのをかみ砕いたのがこうなるのだが、見事にちぐはぐである。

言い訳をさせて貰えるなら、この曲はなによりも感性で評価するべきところであるから言葉にし難いというところ。

 

最初ということで何がいいたいやらよくわからないしお前が一番好きな曲がこれしか語れないのかとかいろいろあるがここらへんで。

about

このブログはおよそ不特定のアーティスト、バンドの楽曲、ディスクレビューを目的とする。

音楽は芸術であるからその良し悪しは感性によるもので言葉にするのは粋でない気もするし、そもそも上手く言葉にできないかもしれない。

それでもまとめたいと思うのは共感、啓発、等を求めてかもしれない。

今これを書きながら自分で考えてはいるものの満足のいく答えにはならなそうだ。

ここまでで十二分におわかりだろうが文章を書くのは下手も下手である。

自分の思考を文章にしてみても読む側からすればそれは途切れ途切れでまったくつながらない。

こうとりあえず書いてはいるものの後から見直すと自分でもよくわからないということは多々ある。

どこに向けているのかわからないこのブログはある種の自己完結に帰結するのだろう。

 

以下は解説にいたる経緯という名の自分語りである。

 

私はいわゆるマイナー好きである。

しかし割と自覚はなく友人からも流行ものが嫌いだよねー、と言われてはっと気が付いた。

別にメジャーな物を嫌っているわけではない、しかしそれでも少数派になってしまうのはなぜだろうと自己問答をしていた。

一つは自分の感性に最大限マッチしたものを求めてだろう。

たとえば味覚を引き合いに出すと、一般においしいと言われるメジャーな料理は苦味が少なく、程よい酸味で甘みとうまみに長けているといった感じだろう。ところが私の好みは苦味が全くなく酸味が強めで甘いのは苦手、だったとしよう。するとメジャーな料理はほどほどにおいしいが大好物にはならない。自分の好みに合った料理は到底一般受けのしないものになる。

それが音楽にもあてはまるということだ。

もう一つはあくまで本当に良いものを見つけたいとう欲求。

メジャーなものが悪いというわけではない。しかし、もし、マイナーなものの中にメジャーに匹敵するようなものがあるとすれば、それは不当な評価だ。この不当な評価というのは私が嫌うものであり、良いものは万人が知るべきところと考える。ここらへんは研究者魂みたいなものかもしれない。

ほかにも私の中二病とかアイデンティティとかそういうくだらないものもあるのだろうがぱっと書き出せるところはこの程度だろう。

もっとも上記の二つは自分の感性、それと別の評価基準を必要とするがそんな器用な人間であるはずもない、私は自分が良いと思ったものをひたすらに広めたい。

そういうわけでこういう良いものがある、ということを他人に見せたいことから開設に至る。

自分でみたいだけなら手書きでいいし、まとめるにしてもevernoteみたいなサービスもある。

このブログは誰かに見てもらう、という前提だが誰かに見てもらえるとは思っていない。

それでも書いていたい。

もしかしたら文章を書くのが好きなのかもしれないようだ。