睡眠障害の見る夢

夜(nokt-o)のブログです。絵描きになりたい。

ほんの少し前までディスクレビューとかいってたのにこの様だ。

まあもともと日々思ったことを書くような備忘録が欲しいと思ってはいたのでちょうどいいといえばそうなのだが。

なにせ、自分は人よりも思考に更けることが多いように思う。

ほらまた思った。

ふざけたやり取りをしていても内容が進まないのでやめよう。

 

まず上記の、本来のブログの目的がふらついていることについての言い訳だが、

見て貰えば分かるとおり、このブログを始めたのが昨年度、その時も衝動的に始めたものだからどうせ長くは続かないだろうと思っていた。実際そうだったし、書く内容も音楽を聴いているときの感想をどうにか形にするというものだったので思っていたよりも楽なものではなかった。

そしていざ、今年度になると詳細は言いたくないが、一言で言うならば私の環境が変わったのだ。

以前よりも音楽に接する機会は減り、ブログを始めた時のような自堕落な時間というのもほとんどなくなった。そのかわり、現実の方が忙しくなり(それは勿論良い事なのだが)ものの見事にブログを書こうという意思は消えた。

 

では、なぜまたこうして駄文を書き連ねているのかというと、まあ、きっかけは些細なものである。

とあるゲームのレビュー記事みたいなのを見て、(とてつもない偏見だが)文章のつくりが稚拙でいわゆるプロのライターとは考えられず、ふとこのブログの存在を思い出して、少し文章をつくる練習でもしておくか、というのが理由である。

自分から言い出すと、とても浅はかな人間のように思われてしまわないか少々不安なのだが、私は今、理工系の大学生として日々を過ごしているが、どうも私の本来の性質としては理系よりも文系に近いようで、文章を読み書きすることに楽しさを覚える。

広義の文系とは云々、理系と文系は云々というのはちょっと今、思いついたのだが本題とそれてしまうので後述する。

そんな過程を経て、頭のなかでうじゃうじゃと空想したことを文章にしたい欲求が形になったというところだ。

 

実は以前にもこことは違う場所でブログをやっていて、そちらはとうの昔にやめてしまった。その理由として管理が面倒だったのと、単純にネタが浮かばなかったのがあるが、一番の理由がそのブログの始めた理由だったりする。別に大した話ではないが、当時の私は若く、承認欲求に満ち溢れていた。これを要約すると読んでもらうためにブログをやっていたわけだ。ところが、実際は身内ですらあまりこないような有様で、モチベーションが下がるのも無理はなかった。そして、もう一つの原動力であった思考の掃き溜めとしての使用だが、こちらは後にtwitterという優秀なツールにのめり込んでしまって、そのブログは不要となったわけだ。

ところが、またしばらくすると今度はtwitterでは思考の掃き溜めとしては容量が足りないのだ。また、まとまった文章を置く場所が必要と感じていたところで、特に何をするでもなく数年を過ごした。…というところで上記の音楽をレビューする衝動に駆られる。

 

ところで、文系と理系の話だが、

まず私がここでいう文系は、経済学や法学などといったすごく広い意味での文系ではない。かといって、いわゆる純文学を愛するようなすごく偏ったものでもない。ふわふわした概念なのだ。ちなみに、ここ以外でも私は文系という言葉を使うが、そのときは頭の悪い大学生を揶揄するものであったりする。

で、この文系という曖昧な概念の前提のもと、文系と理系というものの話をしたいのだ。

まずは文系の定義をした以上、理系の方も話しておかねばならない。

私がいう理系とは、理論的な思考が出来るものの、コミュニケーションではそれが発揮されず…と言えばもうみなまでの説明は不要だろう。世間一般に広く浸透した理系のイメージである。全然関係ないが、私は現在理系に属するので、こういったイメージが大きく間違っていることを知っている。例えば、頭のよくコミュニケーションも完璧な超人や、頭が弱く、段取りが下手糞(この言い回しは正しいのか?)な輩は私の周りに満ち溢れている。

それは置いといて、私が何を言いたいかというと、なぜ理系の人間は文章が苦手に思われている(実際にそういう節がある)のか、ということである。

私は自身が理系に進むよりも前に、自らが文系寄りの人間であると考えていた。(実際そうだった)

思えばその時は、私は文系として完成してなかったのだ。ここまで呼んでくれた方は何をいっているのか、ちんぷんかんぷんであるとおもう。

詳細に言うと、私は理系の道に進む前、読書をよくしていたし、そのおかげか、国語の評点も良かった。一方、数学や理科といった分野は結果から見れば不得意であった。しかし私は自分の興味を貫き理系に進んだわけだが、そこで学んだのは論理的な展開をする考察能力だった。この論理的な考察能力というのは、実は文章を作るうえで必須条件であるのだ。そうするとやはり理系が文章を作るのが苦手な理由がわからなくなるかもしれない。しかし、私は(独善的だが)文章をつくるのは得意である。この差がどこにあるかというと、幼少期なのだ。

文章を作るのに必要なのは論理的展開をする思考能力だが、それよりももっと必要なものがある。単語と文章の在り方がどういったものかという知識、まさにこれが文章が苦手な理系に不足しているのだろう。

なんだかもう疲れてきたので急ぎ足になるが、文章を書くという行為はそれほど高等な技術ではない。文系の人間もわざわざ高等教育で学ぶことはないだろう。(偏った知識なので違うかもしれない)しかし、理系の人間は高等教育で文章の書き方を学ぶ。この差である。理系に必要なのは文章を学ぶ以前に文章というものはどのように作られているか、という基礎であるのだ。

その点、私は幼少にはしっかりと図書に触れ、成長していくにつれ、論理的な思考を学ぶことでこうして文章を書くことが出来るわけである。(これで見直してみて文章が破綻しているとこの記事が高度なギャグになるのでそれはそれでおもしろいかもしれない。)

理系は空気が読めない、とかいうのはもしかしたらこの国語的な能力と関連があるのかもしれない。

別になにか結論があるわけではないので、唐突に話は終わる。

ここまで、衝動的に頭に浮かんだことを書いてきたわけだが、こういったことをあとで見直してみたりすると、嘲笑を買うような適当なことが書いてあったりするのでそれが少し怖いのだが、逆に推敲を重ねていくと初期の気持ちが褪せてしまうのでそれはそれでブレブレなものができてしまう。一応見直してはいるのだが、ちゃんと読み物になるのかはわからない。

 

見直すと、当然のように言い回しが妙に変なところが多々見受けられる。

訂正する気力もないし、これはこれでアリなんじゃないかと、自分を無理やり納得させて今日のところはおやすみなさい。

4ヶ月前の自分

どうしてもこの季節に慣れる事は出来なそうだ

何かを成し遂げなくちゃいけないような焦燥に駆られて

そんなことしなくてもいいのに

考えているだけで押しつぶされそうな不安と希望を抱えて

いつも不安しか見つめることができずに答えは出さず

何もせず

 

そのツケがいよいよ回ってきたのだ

もう目を背けることは出来ない

不安なのは過去の後悔を清算することだけ

変化が嫌になってしまった大人だよ

でも立派な人間でもない

ずっとこの毎日を繰り返したいと思うのは間違いじゃない

そう信じてる

思い出を背負って行くには向き合わなければならない事ばかり

先送りにしてきた懸念要素が積み重なり逃げ出したくなるほどの

恐怖

そんなことだけ

考えるだけ

何も進めていない

進みたくない

気取った言葉で書き連ねても心は晴れない

思考は止まらない

自己分析こそが自己防衛

詩人にはなりたくない

眠れないのは昼寝をし過ぎたせい

自宅でレベルを上げるのはゲームだけ

 

過去を捨てたくない

引きずりたい

忘れたくない

この不安も

嫌な思い出も

まとわりつくままに過ごしたい

真っ白なのは嫌だ

この感情を殺さねば

それこそが唯一の処方

それは自殺

思い出を捨てるのは過去の自分殺し

捨てたくない

間違った自分を

嫌だ

前に進むことが嫌なんじゃない

この位置を動くことが嫌なんだ

いくら書こうとも拭い去ることは出来ない

いつまでも我儘で

そんなのは承知

じゃあどうすればいい

どうしようもない

衝動だけ

 

この不安を吹き飛ばそうとする衝動だけ

 

すがりつく

いつかの誰か

昔々、とある少年は規則正しい生活を送っていた。

その少年は日の出を見たことはあっても、日付が変わる瞬間を経験したことはなかった。

時は過ぎ、少年の好奇心はついにこっそり夜更かしするという行動へ導いた。

確認するのは手元の目覚まし時計、電気を消すと暗くて何も見えなかったが、幸いにも目覚まし時計にはライトアップがついていて時間を確認することは苦にならなかった。

そして、その瞬間が訪れる。

少年は息を呑み、全身の神経を研ぎ澄ませ、来たるべき瞬間に備える。

時計の針が上を向いて重なる。

予感していた。少年は日付が変わる瞬間に意味がないことを知っていた。

それでも、なにか起こると微かに願っていた。

さらに年月は経過し、少年は年末のカウントダウンまで起きていられるようになった。

今まで見ることのできなかった年明けのムードをテレビから感じていた。

それは局ごとにずれているカウントダウンだったり、年明けの瞬間の派手な演出だったりであった。

しかし、同時に少年は思う。

「年が明けても何か世界が変わるわけじゃない」

「人間が騒いでいるだけで」

「日付が変わるその瞬間と何も変わらない」

「何も起こらない」

それでも毎年、こたつを家族で囲み、TVとともに来たる新年に冬休みの少年は幸福を感じていた。

最近になって、少年は青年になり、インターネットをも使いこなすようになった。

TVを見る時間は少なくなり、SNSにふける日々。

今まで「新年を迎える」ということだけで楽しかった時間はいつしかつまらなくなっていた。

家族との話がしたいわけでもない、TVは今更気づくが毎年同じことの焼き増し。一種のマンネリだ。

その一方で彼はインターネットを用いて新たなおもちゃを手にしていた。

そのおもちゃは自分の境遇を実況したり、年末の企画やらなんやらを全く意に介さずひたすら友人とコミュニケーションをとったりと様々な挙動を示すが、年明けのその瞬間にはそろって「あけましておめでとう」とプログラムのように出力する。

彼はこのおもちゃのおかげで年末をより一層リアルに感じることが出来る。

おもちゃの中には友人たちもいる。彼の大嫌いなラブラブカップルもさすがに年末は家族と過ごしているようだ。

年が明けることに全く変化はない、だからこそ年が明けることに意味をもたせようとする人々(勿論そんな意図はないだろうが)を見ていたいのだろう。

いつかはそんなことも飽きてしまうのかもしれない。

彼の将来によってはそのおもちゃを捨てたり、おもちゃの事を忘れて何か別の事をしているかもしれない。

それでも今はまだそんなことを考えたくはなかった。

このおもちゃをもってリアルとは全く片腹痛い。

とおもちゃに思いを吐露する彼であった。

 

藍坊主「ジムノペディック」

2017/10/17編集

自分のPCだからかもしれないが、googleで「ジムノペディック」と検索すると結構上の方に出てきてしまったので、もう少しブラッシュアップするべきだと思って編集しました。

 

記念すべき?最初のレビューは、藍坊主というバンドの楽曲、「ジムノペディック」。

どの楽曲にしようか悩んだのだがやはり今一番好きな曲を聞かれたときの答えが適当だろうと。ちなみに、藍坊主を知ってから10年近くたった今も、藍坊主のなかで一番好きな曲を訪ねられたらこう答えます。

ジムノペディック」は藍坊主のメジャー3rdアルバム、ハナミドリに収録されている楽曲です。後に、ベストアルバムにも収録。また、ハナミドリ内の楽曲ではシングル楽曲を除いて唯一MVが作製されており、ライブでもセトリの定番であるなどファンからの支持も集めています。

 

このブログを見る人が藍坊主というバンドを知っているか知らないかで記事の書き方が変わってくるような気もするが、面倒なので徹底してこの楽曲のみに絞ったレビューをしようと思います。

 

いまや初めて聞いた時の感想は思い出せませんが、ただただ、私の感性をガラッと変えてしまうような衝撃を受けたということは思い出せる。

どうしてもこの楽曲を語る際に芸術性、綺麗さといった言葉が出てきてしまう。おそらくはもっと適当な日本語があるのだろうが私の語彙が貧弱なばかりにどうも奇妙な文章になってしまいます。

兎にも角にも、「綺麗」というのがこの曲の感想なのだ。

私にバンドサウンドの知識は全くなく、詳しい人からは何を言ってるんだと突っ込みを受けるかもしれないが、なんとか魅力を伝えていきたいと思う。

 

イントロはピアノの旋律から始まるこの楽曲は個人的には藍坊主の最高傑作であると勝手に断定しています。藍坊主の楽曲はどれもイントロが特徴的かつ、心地よいリードになることが多いと思ってます。

 

はっきり言って、この曲の詞はよくわかりません。だから歌詞を見ながら聞いても「深いなぁ~」とか頭の悪そうな奴が言いそうな感想は出てこないはずです。

では、支離滅裂な内容になっているかというとそうではない。hozzyの作詞はとことん「感覚的」であるのです。そして、その感覚的フレーズが論理的につながる部分が妙なとこであるといえます。

アルミホイルを噛んだ味がしそうな火曜日→ジムノペディが水をかけていく→この世界がふやけてしまう前に→水曜日の朝に…

火曜日に水がかかってふやけそうになり、水曜日になる。この直観的な言葉遊びを好むかどうかというのは、この曲に限らず、hozzyの作詞が好きかどうかというところにかかわってくると思います。

Bメロでは、青い海にいるはずの魚が、青い空にいてもいいと提案しますが、同時にからからに乾いた晴天では魚は干からびてしまう。そして乾いた世界がひび割れないよう笑ってくれと。こういったロジックがあるのが、藍坊主を聞きこんでしまう理由になります。興味深いのは、乾いた世界と対となる概念が雪であるということ。おそらく、ふやける↔風、乾く↔雪であると思ってます。こういった一般的でないhozzyの感覚は曲に彩りを与えるアクセントですね。

 

 

この曲を初めて聞く人は何があってもサビまでは聞いてほしいです。

こういうとまるでサビが別格のように聞こえてしまってあまりよくないのだが、Aメロまで聞いて「別に…」というところで聞き終えてほしくないのだ。

この曲の魅力の一つにサビの盛り上がりが上げられるだろう。

何か閉塞的なAメロからサビに向けてサウンドは広がりつつも水面下で落ち着いているのがサビで一気にvo.hozzyの声も相まって開放的になる。サビのコーラスはこの楽曲の綺麗さに拍車をかける。

藍坊主というバンドの良さにvoであるhozzyの声がある。

彼の透明感を持ちつつ芯のある声は藍坊主の楽曲により一層の磨きをかける。

最近の流行の女々しい声のバンドと違って特に高音部での発声は綺麗でありながらもナヨナヨしさが全くない。

このジムノペディックは藍坊主の楽曲の中でも音程が高い部類に入る、そのためhozzyのボーカルが冴えわたるというわけだ。

(そして、正直AサビBサビの歌詞は単体でみるとそこまで好きではない)

 

 

サウンド面では最初にも言ったように鮮やかなピアノの旋律が随所で散りばめられていて楽曲の芸術性(何故か低俗に聞こえる)を高めている。一度聞くとピアノの音が印象的なこの楽曲であるが以外にもピアノの旋律部分はイントロアウトロ以外では少ない。それ以上にバンドサウンドがこの楽曲の綺麗さを高めているのだ。

サビ直前のギターのスクラッチ、ドラムロール、こういった要素がサビの盛り上げに貢献している。そのサビでは(サビ以外もだが)ベースが動く動く。

 

この楽曲に限ったことではありませんが、編曲、あるいはアレンジの上手さは藍坊主の特徴です。まず、ドラムとベースのリズム隊がうまく、安易なフレーズを繰り返さないので曲全体にまとまりがでつつも、聞き飽きない。ベースのメリハリも曲のメリハリに直結しています。リードギターとメロディーラインのハーモニーはわざわざ書き立てるでもなく綺麗ですし、ギターのカッティングもリズムになっています。

 

そしてなによりCメロからは圧巻。

上記で触れた歌詞だが、このジムノペディックに対してはその雰囲気に見事に一致している。

こういう歌詞自体は藍坊主では珍しくないのだが、ここまで曖昧なのはそうないだろう、しかし曲の芸術性には助力している。

 

何度聞いても、おそらく何年経ってもこの曲に飽きるという日はこないだろう。

本当なら「この曲すげーよ!なんかすげーよ!」というのをかみ砕いたのがこうなるのだが、見事にちぐはぐである。

言い訳をさせて貰えるなら、この曲はなによりも感性で評価するべきところであるから言葉にし難いというところ。

 

最初ということで何がいいたいやらよくわからないしお前が一番好きな曲がこれしか語れないのかとかいろいろあるがここらへんで。

about

このブログはおよそ不特定のアーティスト、バンドの楽曲、ディスクレビューを目的とする。

音楽は芸術であるからその良し悪しは感性によるもので言葉にするのは粋でない気もするし、そもそも上手く言葉にできないかもしれない。

それでもまとめたいと思うのは共感、啓発、等を求めてかもしれない。

今これを書きながら自分で考えてはいるものの満足のいく答えにはならなそうだ。

ここまでで十二分におわかりだろうが文章を書くのは下手も下手である。

自分の思考を文章にしてみても読む側からすればそれは途切れ途切れでまったくつながらない。

こうとりあえず書いてはいるものの後から見直すと自分でもよくわからないということは多々ある。

どこに向けているのかわからないこのブログはある種の自己完結に帰結するのだろう。

 

以下は解説にいたる経緯という名の自分語りである。

 

私はいわゆるマイナー好きである。

しかし割と自覚はなく友人からも流行ものが嫌いだよねー、と言われてはっと気が付いた。

別にメジャーな物を嫌っているわけではない、しかしそれでも少数派になってしまうのはなぜだろうと自己問答をしていた。

一つは自分の感性に最大限マッチしたものを求めてだろう。

たとえば味覚を引き合いに出すと、一般においしいと言われるメジャーな料理は苦味が少なく、程よい酸味で甘みとうまみに長けているといった感じだろう。ところが私の好みは苦味が全くなく酸味が強めで甘いのは苦手、だったとしよう。するとメジャーな料理はほどほどにおいしいが大好物にはならない。自分の好みに合った料理は到底一般受けのしないものになる。

それが音楽にもあてはまるということだ。

もう一つはあくまで本当に良いものを見つけたいとう欲求。

メジャーなものが悪いというわけではない。しかし、もし、マイナーなものの中にメジャーに匹敵するようなものがあるとすれば、それは不当な評価だ。この不当な評価というのは私が嫌うものであり、良いものは万人が知るべきところと考える。ここらへんは研究者魂みたいなものかもしれない。

ほかにも私の中二病とかアイデンティティとかそういうくだらないものもあるのだろうがぱっと書き出せるところはこの程度だろう。

もっとも上記の二つは自分の感性、それと別の評価基準を必要とするがそんな器用な人間であるはずもない、私は自分が良いと思ったものをひたすらに広めたい。

そういうわけでこういう良いものがある、ということを他人に見せたいことから開設に至る。

自分でみたいだけなら手書きでいいし、まとめるにしてもevernoteみたいなサービスもある。

このブログは誰かに見てもらう、という前提だが誰かに見てもらえるとは思っていない。

それでも書いていたい。

もしかしたら文章を書くのが好きなのかもしれないようだ。